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時空紀行で取り上げて来た地元糸島半島周辺のうさぎさんと廻る戦争遺跡シリーズの第3弾目です。
福岡県糸島市志摩小富士地区に旧海軍の飛行隊跡があると聞いたのは約1年前。
その飛行隊の名称は「小富士海軍航空隊」

えっ!? あんな所に飛行隊が有っただと!!
初耳でした。

今を去る事1年前に、さっそくまめと訪れて見たのですが・・・

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前原駅から小富士方面に県道54号線を走り、JAアグリを過ぎた
この県道の左手にひっそりとこの記念碑が建てられてました。
よほど気を付けて見て無いと100パーセント通り過ぎてしまうほど、ひっそりとたたずんでます。

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確かに、記念碑には小富士海軍航空隊跡と書いてありますが、どんな航空隊なんだろう?

裏にこの航空隊の概要が書いてあるようですが
「風雲急ナル大東亜戦下祖国防衛ノ念ニ・・・」


ΣΣ┗(|||`□´|||)┛ンガァァー!! わかんねぇぇぇ!

延々、こんな感じで書いてあるので、とても読む気がしませんし正直、解読不能でした。

毎回思うのですが、戦争の悲惨さを伝えたい為の記念碑なら、
言葉を美化しないで、もう少し分かりやすく、真実を誤魔化さないで書かないと
私達には伝わらないと思うんですよね。
戦争遺跡を語るなら、批判を恐れずに、本当の言葉で伝えてほしいと本当に思います。

そんな訳でこれは、時空紀行で書いても話が膨らまないなと思い、
お蔵入り企画になってたのですが・・・

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そんなある日、アジア歴史資料センターの閲覧可能な公文書を読んでいた時に
偶然見つけた小富士海軍航空隊の配置図。


Σ( ̄□ ̄ノ)ノゲ!!
こんなに大規模な飛行場だったの? 飛行場の横には練兵場もあります。

こ・こ・これはおじさんに調べろと言う暗示かぁ? ( ̄‥ ̄a;)ぽりぽり

そんな訳で本気でこの航空隊の事を調べて見ました。
昭和18年、戦局の悪化は日々増し、海軍は航空隊の補強の為に、15〜16才の旧制中学終了程度の
男子に対して搭乗員育成を目的とした施設を各地に作りました。
この施設も俗に言われる予科練教育施設だったようです。

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軍は、昭和18年10月より、用地測量、用地買収を行い昭和19年5月15日に
この地を鹿児島海軍航空隊小富士遣隊として発足させ、
終戦までの1年強で5000名程の予科練生が巣立って行った過去がわかりました。

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見つけた小富士海軍航空隊配置図を現在の衛生写真に合わせてみると、
ご覧の通り、飛行場跡は全て田んぼに変わっているのがわかります。

残念ながら目で見える遺跡等は既に存在しないかもしれません。
本当は目で見える物が一番説得力があるんですけどね。残念です。

それで、このお話が決して絵空事では無い事を
視覚からも感じてほしくてこんな物作ったんですよ。

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飛行場自体は舗装された滑走路は無く、草場の飛行場だったらしいので、こんな感じだったのかな?
おじさんの想像ですけどね。

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この航空隊の概要は分りましたが、ここまで調べると、何だかこの航空隊に感情移入してしまって、
もっとこの地でおこった事を知りたいと感じてしまいます。

実際にどんな機体が配備されていたか調べれば、もっとこの基地の事が見えてくるかな?
配備記録等は大戦当時は極秘資料ですから残っている訳がありません。

あっ!! そうだ!! (゚ロ゚屮)屮
終戦後の戦後処理の兵器引渡し書類の公文書なら見れるかも??
と言う事で調べて見ましたよ。

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昭和20年10月16日付けの、小富士海軍航空隊から米軍への引渡し飛行機の閲覧可能書類です。

赤の枠が多分、飛行可能な機体で、青の枠は何々機、機体と明記してあるので、
エンジンやその他部品が欠品してて、実際には飛べない機体なのではないかと思います。

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九六式艦上戦闘機2機 (飛行可能機体)
零戦と比べると馴染みが無い戦闘機ですが、設計者は零戦の生みの親、掘越二郎で、
掘越技師によれば、後の零戦よりも快心の戦闘機だと言わしめた名機でした。
昭和10年〜運用、昭和17年末には第一線からは退き、
以後は練習機等として終戦まで運用された機体です。

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九五式水上偵察機2機 (飛行可能機体)
昭和10年〜15年まで製造され、第一線を退いた後は終戦まで哨戒機や練習機として使用された。

この書類を見る限り、終戦間際はこの4機が練習機として稼働していた見たいですね。
以下は終戦当時、小富士海軍飛行隊に置かれていた機体の種類です。

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零式艦上戦闘機 機体1機 (飛行不能)
昭和15年〜終戦まで運用

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二式水上戦闘機 機体2機(飛行不能)
基本設計は零戦11型と同じ昭和17年〜終戦まで運用

 九六式艦上戦闘機 機体2機(飛行不能)
上記飛行可能機体と同じ

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九七式艦上攻撃機 機体2機(飛行不能)
昭和12〜終戦まで運用

九三式中間練習機  機体1機
(飛行不能)
昭和9年〜終戦まで運用


やはり資料を元に
、ここまで調べを進めると、正直、怖い感じを受けてしまいます。
口頭で戦争の悲惨さを訴えるのとは訳が違う感じです。
ここに間違い無く予科練の航空隊があった現実を突き付けられた感じがするからです。
5000人がここを巣立ち、その内、何人が人生をまっとう出来のか・・・


皆さんはこの資料を見てどう感じられましたか?


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この日記を書き進めている最中に、ある情報が飛び込んで来ました。
小富士海軍航空隊施設の遺跡が記念碑の近くに残っていると言う情報です。
早速、まめと現地に出向いて見ました。

(´+_+`)ウゥ…なんだぁ!? これは??

土管と何かの神様の石碑?

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石碑は神仏関係かと思ってましたが、どうも違う様です。
確かに何か書いてあるのですが、旧字体で読めない・・・
感覚的には、確かに軍施設に多く残っている書体に似ています。

しかし、読めないのでは、確信は得られません。

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この土管は、航空隊施設に水を供給する為の、サイフォン式の給水設備の一部らしいのですが、
正直、本当かぁ?って疑ってしまう感じですよね。

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(_≧Д≦)ノ彡☆バンバン!! 
 おじさん、手持ちの資料と照らし合わせて見ようよ。
昔の配置図に、この近くに何かの施設が書いてあれば、この情報の信頼性は上がるんじゃね??

確かにまめの言う通りです。早速家に帰り、照らし合わせて見ました。

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家に帰り、手持ちの配置図にサイフォン式給水施設跡の位置を落とし込んで見ると・・・

(゜ロ゜;)....う・・うそ
本当に、大きめの施設のすぐ横に有る事が分りました。
しかし、資料の地図の文字が薄くて、何と言う施設なのか分らない?
何となくって書いてある気がします。

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今現在の衛生写真に書き落とすと、こんな感じです。
配置図は手書きなので、施設の位置や大きさは若干違うと思いますが、
大まかな位置関係は間違い無いと思います。
このサイフォン式給水施設跡は、かなり信憑性があるな。って考えてました。

そして、この資料を作っている時に気付いたんですよ。
現地で見た時に何も建っていなかった場所に屋根が写っている事に・・・

この時に、思い出しました事がありました。
もう10年位前ですが、この地域に大戦当時の木造建造物が残っていているって内容の記事で、
1枚だけ写真も掲載され、その建物は兵舎か病院の建物だった等の記憶が・・・
もしかしたら、この小富士海軍航空隊の施設だったのか?

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と言う事で、再度現場に戻って来ました。┌(* ̄0 ̄)┐ワーッハッハッハ
疑問が湧いたら、じっとしてられない性で・・・

あっ、やはり建造物は見えない。(左の写真)
でも衛生写真ではあの林の中に屋根が見えていたんです。
注意深く周囲を観察すると・・・

ヤバイヨ(TдT;三;TдT)ヤバイヨ
木の間から木造建造物が見隠れしてます。(右の写真)

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(゜ロ゜;)....う・・うそ

本当にあったんだぁ。
こんな場所にあったら見つからない訳です。
だって外からは林に隠れて、まったく見えないからなぁ。


戦後71年の時を超えて目の前に現われたのは、紛れも無く小富士海軍航空隊の施設跡です。

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当然ですが、まめもしっかり証人として着いて来てます。(笑)
この写真で2016年現在、この建物が実在する事を信じてもらえるかな?

と言うか、普通に着いて来る、まめの方が信じられないかな(大笑)

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正に、忘れられた戦争遺産って感じです。
これが当時の建物だと知っている人は数える程しかいないのでしょうね。
こんな扱いですから。
後、何年建物としての外観を保てるのかな?

まるで崩壊する前に見つけてもらいたくて、この建物がおじさんを導いた様な気さえします。

大丈夫。少なくともおじさんはずっと覚えているよ。

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最後に、この建造物がなんだったのかだけは、しっかり調べてあげたくて、
資料を片っ端から調べ廻りました。
手に入れてた、配置図の資料では施設名が消えてしまっていて読めませんでしたが、
おじさんとまったく同じ目にあった米軍の記録係りが居た様で、
なんと全部英語で資料に書き落としている資料を発見。
この米兵さんとは、きっと友達になれるなぁ。なんて思いましたよ。(笑)感謝です。

この資料には2nd main offiseとしっかり明記してあり、2っ有った建物の手前側が
1st main offiseで、この小富士海軍航空廠のメイン施設だっと言う事が分りました。
と言う事は、石碑や給水施設も本物と判断して良い様です。

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この建物が第二小富士海軍航空廠だと分り、中を覗いて見ると、
メインの通路に左右に小部屋が作られており、確かに納得出来る作りだなぁ。って思いました。

多分、この敷地も建物も個人の所有物になっていると思いますから、これ以上の散策は出来ませんが、
中を調べれば、きっとそれらしい張り紙位は残っていそうな気がします。

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如何でしたか?
何か感じてもらえましたか?


この小富士海軍航空隊跡の存在を知ってから、1年以上調べ続けて
本当の意味の郷土の戦争を知りたくて、悪戦苦闘してどうにか、たどり着いた本物の戦争遺産。
それを綴ったおじさんとまめの日記でした。

冒頭でも書きましたが、変に言葉は美化しないで、戦争遺産と真っ向から向き合って、
おじさんの言葉で書いたつもりです。

読んで頂いた方が何かを感じて、今日を精一杯生きようと思ってくれたら嬉しいなぁ。
そんな事を思ってます。

それでは、又、別の機会にお会いしましょう。

博多のおじさん&まめ


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