トップへ戻る

01

(=´▽`=)ノみなさんこんにちは。
今回も前回の続きで無窮洞をお贈りします。
前回は主洞の説明だけで終わってしまっていましたが、
今回は、主洞以外の無窮洞の探検模様をお贈りします。

あっそれと、この手の話が苦手な方は読み飛ばして下さいね。
かまいませんからね。

でも、こんな非日常的な世界を知る事も決して悪い事では無いとおじさんは思ってます。
我慢が出来る方は少し読んでみて下さいね。
m(_ _;)m

25

まず一番最初に前回お伝え出来なかった無窮洞の全体の作りを説明したいと思います。
上の平面図が無窮洞の全体図になります。

(=´▽`=)ノどうですか?
思ったより凄く大きいでしょ?
入口から入って赤い線通りに今回は見て回りました。
前回は主洞を説明しましたから、その続きになります。


それでは早速、無窮洞の方に戻りましょうかね。

02

主洞の突き当りから右につながる連絡通路です。
この通路だけでも映画の撮影が出来そうな位に雰囲気があるでしょ?
でも決してここは、映画のセットでは無いんです。

ここに立つと、戦争がどうのとか考える以前に、この場所が持っているものに圧倒されてしまいます。
よく、鳥肌が立ったとか言う表現を聞きますが、
本物が持つ、この独特の雰囲気は、そんな言葉だけでは表現出来ないとおじさんは思います。

そんな、この通路の左側に書類室の入口があります。


03 04

左の写真が書類室への入口になります。
正面の棚には、天皇・皇后の肖像写真が飾られていたそうで、当時は神域と言って良い場所で
この部屋は生徒達は入ってはいけない事になっていたそうです。

05

部屋の中には書類棚なんかもあり、重要な物を置いてあった部屋の様です。
この部屋には御真影が飾ってあった訳ですから、
もしかしたら校長先生だけしか入れない特別の部屋だったのかも知れませんね。

06

書類室を抜けると倉庫につながっています。
この部屋に食料を備蓄して、この無窮洞内で短い期間なら生活が可能な状態を考えていたらしいです。

当時は、うさぎさんも食料だったと聞きますから、まめの居場所はここでしょうね。

まめは、どちらかと言うと痩っぽちなので、美味しくないとは思いますけどね。(笑)

07

このこの倉庫は他の部屋とは違い、見ての通りまだ仕上げが終わらないまま終戦を迎えたとの事です。
この無窮洞は昭和18年(1943)から昭和20年(1945)8月15の終戦の日まで
掘り続けられたとの事でしたから、
この部分が最後の作業場所に当たるのではないかと思います。

大人でも食べ物に困る一番苦しい時期に掘られた訳です。
本土決戦になったら、何があっても、こども達は守ると言う強い信念を感じてしまいます。

08

倉庫を抜けると、調理場があります。

しかし、凄いですよね。(゜ロ゜;)....う・・うそ
他の防空壕はまだ見た事がありませんが、
ここまでの設備を持っている一般の防空壕ってそんなに無いと思いますし、
こうして中に入れる所は、もうほとんど存在しないのでは無いかと思います。


09

かまどには、鍋も入ってます。
実際にここで、調理をしたのかは聞き忘れましたが、作る事は可能だったと思います。

10

調理場の奥には流し台もあり、流しの横には水を溜めておける場所も確保してありました。
本当に、ここで十分に生活可能です。

ここを見た時におじさんは思いました。
ここを作る計画を立案した時に、軍の援助は出来ないと、きっと校長先生は言われたのだうと思います。
それは当時の時勢を考えれば、手伝いたくても手伝えない軍の内情があったからだと思います。
しかし、このかまどから調理場のレイアウトは、明らかに当時の他の作戦基地内部とそっくりです。

表立って手伝う事は難しかったのかも知れませんが、きっと近くの軍の基地から
交代で手伝いに来てるなと。おじさんは思いました。

この学校には疎開して来た学童が多かったと聞きます。
そんなこども達を我が子に置き換えて守りたかったんでしょうね。

そんな優しさをこの区画から感じました。



12

そんなおじさんの思いを確定した物がこれです。

(; ̄□ ̄)ゝなぬっ? なんだぁ。
この調理場には、こんな螺旋状の階段が・・・

正面入口以外にもこんな避難道が作られてました。螺旋状に上へと延びてます。
火を使う調理場の中に作られている事を考えると、通気構としての役目も大きかったのだうと思います。


13 14

この避難道の先は、こんな感じになっているそうです。
これは・・・軍お得意の作り方です。

(o_ _)ノ彡☆ポムポム マジで作りやがったな。
この写真の中におじさんには、汗を流しながら子供達を手伝っている軍服姿が・・・
思わずそんな事を想像して「ニャ」っとしたおじさんでした。

11

この避難道は螺旋状の階段になり地上に出ている訳ですが、
これは上と下から同時に掘って貫通させたと記録に残っているそうで、
貫通した時は子供達の歓声が上がったと聞きます。

しかし、これはどう考えても、専門的な測量技術が無いと出来ない工事です。
しかも螺旋階段でつながる様に作るとなると、偶然につながるって事はまずおきないですよね。

間違い無く、軍の手伝いが入っていると思ったのは、この設備を見たからです。
公式には一切援助はしてないと記録に残っている事を考えると、
これは、こども達への愛情だけで動いた部隊が存在した事の証では無いかとおじさんは思うのです。

きっと子供達の歓声の中に軍服を着た笑顔があったとおじさんは思います。
みなさんはどう思われますか?

15

調理場を抜けた先に、この副洞があります。
この副洞にはとても辛い過去がありました。
長崎に原爆が落とされた時に、被害者が運び込まれて一時は医療施設として使われたそうです。
当時は原爆の知識も無い訳ですから、伝染病等の危険も考えて隔離に近い状態ではないかと思います。
残念ながら運び込まれた患者は全員亡くなったそうです。
sw
とても重い話です。
しかし、ここに運ばれた被害者の手当てを正に必死で行った医者もいたはずです。
献身的な看護を続けた看護婦もいた訳です。
戦争遺産を見る時に起った事実を元に、ほんの少しだけ想像力を働かせて
ここで起った事の本質を考える事が、とても大事だとおじさんは思います。

そうする事で、なんとか助けたいと奔走していた人達の頑張りも見えて来るとおじさんは思います。

16

副洞の突き当りには、こんな穴が・・・
副洞の話を聞いた後だったので、何だか「ほっ」とします。
ε=( ̄。 ̄;A フゥ…

しかし、避難口にしては、ちょっと小さ過ぎますよね。

17

外から見るとこんな感じです。
まめなら通れますが、流石にペット用の出入口の訳では無いしね。(笑)
なんの為の穴なんでしょうか?

18

空襲の時に数回、全校生徒約600人が避難した事が実際に有ったらしいのですが、
流石に600人は多過ぎて酸欠状態になった為に、農家から「唐み(とうみ)」を借り出して
ここから空気を送ったと言うエピソードが残っているらしいです。

唐みとは米と籾がらを選別する為の農機具で、風で籾がらを吹き飛ばします。
この送風機能を使って洞窟内に空気を送り込んだと言う訳です。

今風に言うと、扇風機をここに置いて空気の循環を行ったて感じですね。
この発想に思わず、おじさんは唸ってしまいましたよ。
当時の人の発想って本当に凄いですよね。


19

こちらが入口側の主洞と副洞を繋ぐ連絡通路になります。

説明を聞く為に一周して、その後写真を撮る為にもう一周してますから、
この頃にはかなり落ち着いてみる事が出来ます。

この通路の入口を見て、あはは、ここでも「遊び心満開」で作ってるなと
思わず笑顔になります。

20

入口には、ぐるりとこんな装飾が・・・

おぉ(゚ロ゚屮)屮やるなぁ。
良い仕事です。


21 22

無窮洞を出ると、陽射しがとても眩しいです。

まめと少しだけ外で散歩していると、こども達の笑い声が・・・


23

この無窮洞の前には今も市立宮小学校(旧宮村国民学校)があります。
校舎からは元気な生徒達の声が聞こえていました。
こども達の声ってこんなに元気がもらえるんだ。
そんな事を思ったの思い出します。

24

戦争と言う過ちは決して繰り替えしては成らない事です。
でも、過去の事実に蓋をして、無かった事にする今の風潮は・・・
戦争遺産をまめと廻る時にいつも思います。


当時の学生達がどんな思いでこの無窮洞を掘ったのか?
おじさんはこう思います。ここを作った生徒達はきっと楽しかったんだうなと。

無窮洞の一見無駄とも思える充実した設備や凝った装飾は終戦間際の混乱した時代に
物作りの楽しさの中から、生きる喜びを必死に伝えようとした大人達の愛情の証の様に感じたからです。
人それぞれ感じ方は違うと思いますが、きっとこの地に来れば何かを感じる事が出来ると思います。

興味半分でかまいません。洞窟探検のつもりでもかまいません。
戦争遺産だからと
眉をひそめる前に一度でいいから、本物の戦争遺産を肌で感じてもらいたい。
これがおじさんの本音です。


最後まで読んで頂き、本当に感謝しています。


博多のおじさん&まめ


戻る


ご意見ご感想などは掲示板 「みんなの広場」 に書き込んで頂けると、
(=´▽`=)ノとっても嬉しいです!!
オサイセン◎⌒ヾ(‾_‾。)   (-人-。) パンパン 誰か書き込んでくれます様に!! 神頼み中


トップヘ戻る





inserted by FC2 system